「現代のことば」<1>

まずもって、「現代」とはいつのことを指すのだろう。果たして、私は現代を生きているのかしらん。

 

実は私、先月、大阪の国立文楽劇場小ホールで開催された芝居に出ておりました。「本日、家を買います。」というタイトルのホーム・コメディー。出演者はもとより、スタッフ全員が関西人。しかも主催は関西テレビ。

 

私は東三国の社宅に住む40代後半のサラリーマン役。2人の子供を持つ父親として念願のマイホーム購入に奔走する筋立てなのですが、その台本たるや―。

 

「うちの娘、ツンデレですから」「え?」「ツンデレ系地下アイドルです」「何それ?」「パパの会社、ネットでディスられまくってるよ」「はぁ?」「もう、オワコンや」

 

私は理解不能の台本を手に、10代の息子と娘役の2人と対峙しました。一つ一つの言葉に意味をしつこく訊くさまは、まさに昭和のオッサンそのもの。とても現代を生きているようには見えません。

 

ちなみに、ツンデレとは「普通はツンツンしているのに特定の相手や事象に対してはデレッとする人」のこと。地下アイドルとは「駅前広場や大型量販店の駐車場などで歌ったり踊ったりしている子」。ディスるとは、リスペクトの反対語であるディスリスペクトの接頭語“ディス”だけが動詞化された言葉で、「軽蔑する」という意。オワコンとは、終わったコンテンツの省略形。「(世間の評価が)もう終わってる」ほどの意味。

 

時代とともに新しい言葉が生まれるのは世の習いですが、パソコンが普及した今日、アナログ人間にはついていけないような造語が飛び交います。

 

せめてもの救いは、若者たちも新語の成り立ちを正確には把握していないという事実。彼らは“ノリ”や“雰囲気”で現代語を駆使しているようです。

 

オッサンの私は、「たとえ現代語であっても意味の分からぬ時は、それを質す勇気を持とう」と心に誓った次第。

 

「現代音楽」「現代美術」と称する作品には、時として意味不明なものが登場します。それらを「前衛の極地」と評する識者もおられますが、分かったふりをするのは危険。ますます「現代」と現代が乖離していきます。私の判断基準は「分かるか分からないか」ということ。作者の意図が伝わらなければ、意味を成しませんね。

 

ありがたいことに、私が生業とする落語はお客に意味は伝わらなければ終わりです。古典であろうが新作であろうが同じこと。その判断材料はお客の笑いと拍手の量。瞬時にハッキリと評価が下る芸なのです。

 

私は、ディベートやメディア操作によって形成された言動に左右されるのではなく、生きとし生けるものの幸せを考えながら現代を歩もうと思う一人であります。これからもよろしゅうおたの申します。