桂小米朝の「新・私的国際学」<17>(2003年8月3日)
落語を演じることって、オーケストラの指揮に似ているなぁと思うときがある。プレーヤーでありながら、演出をし、ときには作者にもなる。
指揮者は音こそ出さないが、タクトを振ってオケに指示を与える。そこで彼らと同じ呼吸をしている。すなわち、演奏しているのと同じなのだ。また、指揮者は〝無〟の境地になるのが良いとされながら、実際は一番目立っている。指揮者の個性がそのまま音楽に表れる。
落語家も同じだ。さまざまな人物になり、演者は〝消える〟のがよしとされながら、結局は演者の個性が如実にお客に伝わる。
同じネタ(曲目)でも、噺家(指揮者)によって全然違うように聞こえるという点もそっくりだ。違う点といえば、前を向いているか、後ろを向いているかの違いくらい・・・。
ゆえに、クラシック音楽が国際的な芸術であるように、落語も国際性に富んだ芸術であるはずだ。いや、ある種、落語は、より合理的かもしれぬ。オーケストラが何十人単位でしか表現できないのに対し、落語は一人で何でも賄える。会場を震わせるような大音響は出ないけれど、大音響に聞かすことはできる。舞台には一人しかいないけれど、大人数に見せることはできる。お客さんの想像力に委ねて・・・。すべて一人の呼吸と間で成せる世界。ちょっとカッコ良く言いすぎだろうか・・・。
そうそう、もう一つ大きな違いがある。指揮者が立っているのに対し、噺家は座っている。実は、正座しているからこそ瞬時に人物を描き分けられるのだ。世界に類のない日本の話芸――落語。私がここに身を置いてから、はや半世紀――。今年9月27日のサンケイホールを皮切りに、芸能生活25周年記念の落語会で全国8ヵ所をまわる。どうぞ、私の前向きの指揮ぶりをご覧あれ。