2012.02.28 「わが故郷、武庫之荘」
兵庫県尼崎市の武庫之荘。だけど、尼崎市であることをあまり主張したがらない武庫之荘の住人たち。「尼崎です」と言わずに「阪急・武庫之荘です」と言う癖が付いています。
ちょうど、神奈川県川崎市麻生区の人たちが、川崎市民であることを隠して「小田急線・新百合ヶ丘です」と言うような感覚です。
阪急(阪神急行電鉄)神戸本線が開通した大正9年には、まだ武庫之荘駅はありませんでした。駅ができたのは昭和12年のこと。宅地開発と連動して駅が作られました。いわゆる新興住宅地のはしりです。
しかし、米朝一家が大阪ミナミから武庫之荘へ引っ越して来たのは、それよりずっと後──、昭和36年のことです。私が3つになる年でした。したがって、私は大阪のド真ん中で生まれたにも拘わらず、大阪市内の学校は全然知らないのです。就学時代はずっと尼崎でした。みこころ幼稚園~武庫東小学校~武庫中学校~尼崎北高等学校と…。プロフィールに「出身地は兵庫県(但し、出生地は大阪市)」と書いてあるのは、そんな事情があるからです。
昭和36年当時、米朝一家は武庫之荘の住人としては新参者でした。すでに存在した1~4丁目に加えて、大同阪急住宅が新たに区画整理をした所に入ったのです。その頃の地名は武庫庄字樋尻127番地だったと記憶しています。周りはまだまだ田圃ばかりで、ウチから武庫川の堤が見えていました。
でも、ほどなく西武庫団地が建設され、道路がアスファルト舗装され、バスが走るようになってから、どんどん景色が変わって行きました。殊に、田圃へ農薬を大量に使うようになった昭和40年頃からは、前の川でドジョウやメダカやザリガニなどを見ることが無くなってしまいました。
でも、高度経済成長が終わってからは、今日に至るまで武庫之荘の街の様子はあまり変わっていないように思います。
かつての農業用水路は、今は“なごみの川”として武庫之荘の風景に馴染んでいます。橋には1から順に番号が付けられており、「17の橋」まであります。
バス道から外れると、川沿いに閑静な住宅地が続きます。
右手のお寺は長年落語会をさせていただいていた法輪寺。
「17の橋」の辺り。 そこを過ぎると、再びバス道と合流して。
ほどなく米朝宅。駅から徒歩15分。ええ運動になります(^-^ゞ
太古の昔、難波の宮から向こうのほうに位置したことから名づけられたと言われる武庫川、武庫山、武庫の庄…。都心からちょっと離れた落ち着きと和らぎは今もあり、それが二言目には「阪急武庫之荘」と言わせしめる理由なのかもしれません。
郵便局の傍で落ち着いた店を構えるイタリア料理「ダ・ヴィンチ」。
昔から交番の近くで営業を続ける但馬牛の「宇杉」は、父のお気に入りの肉屋さん。
よろしかったら、武庫之荘を知らない皆さんも、一度ふらっと歩いてみませんか(^ー^)