2013.03.25 《四天王寺か天王寺か──、はたまた天皇寺!?》

先月23日のブログで、「四天王寺って、なんで天王寺と言われるようになったんやろ」という文章を載せたところ、作家の中山市朗さんから、一冊の本が送られて来ました。

 

 

ご自身がお書きになった『聖徳太子 四天王寺の暗号』(ハート出版)という著書です。

 

中山市朗さんと私とは、昔から古代史研究を通じての知り合いでして、彼の『古事記』『日本書紀』を精読した上で通説の矛盾点にメスを入れ、さまざまな文献・伝承・地名を精査することにより“真実”に近づこうとする手法に、私は大いに感銘を受けて来た一人なのです。

 

以前、『捜聖記』(角川書店)を上梓された時も、丁未の乱(仏教導入をめぐる物部氏と蘇我氏の争い)における不透明な部分に光を当て、聖徳太子の正体に迫る一連の筆致がとても面白く、仕事を忘れて読み耽ったものでした。

 

今回の『四天王寺の暗号』(ハート出版)でも、思いもよらぬ観点からの考察にグイグイと引き込まれてしまいました。

 

それによると、筆者は、丁未の乱で崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子は、父親の用明天皇は蘇我氏の血脈であるが、母親の穴穂部間人皇女は物部の係累であることを論証し、動乱の世に物部神道を守るために建てたのが四天王寺であったのではないかと主張。西門前に鳥居があり、そこから拝む伽藍の後ろに物部氏の信仰対象である生駒山が聳えている意味もよく理解できると──。

 

また、四天王寺の周辺には聖徳太子ゆかりの神社が七宮あって、いずれもが御祭神に素盞鳴尊(スサノヲノミコト)との関わりがあることを紹介。そして、四天王寺の境内に「牛王尊」の祠があり、これが重要であることを力説。

 

しかも、江戸時代の大阪の古地図に「元天王寺之地」という表記があるのを発見し、現在の地図に照らし合わせると、鵲森宮(カササギノモリノミヤ)、いわゆる森之宮神社であることが判明。そこのご祭神は、用明天皇と穴穂部間人皇女と聖徳太子! すなわち、聖徳太子とその両親が祭られていることを指摘。

 

その近くにある玉造稲荷神社も紀元前の創建と伝えられている古社で、やはり四天王寺の元宮であるとの言い伝えがあると補足。

 

いずれにせよ、「元の天王寺」と伝えられている所が二ヶ所とも神社である不思議を強調。

 

この本で、私はまた古代史探究への意欲を大いに掻き立てられました(^ー^)

 

 

日本仏法最初の官寺と言われている荒陵山(アラハカサン)四天王寺──。ひょっとして、物部氏と蘇我氏の間に挟まれた聖徳太子が苦心の末に建てた宗教施設だったのかもしれません。

 

創建当時は誰が祀られてあったのでしょう。物部氏の祖神なら饒速日命(ニギハヤヒノミコト)、神武東遷以前のヤマトの最高神です。ということは…天王寺ではなく、天皇寺だったと言えるのかも!? だから「四」が取れて、「天王寺」と呼ばれるようになったのかな?

 

 

本を読んだ後、私は森ノ宮ピロティホールの東側にある鵲森宮へと出掛けました。ご祭神を確認するために…。

 

 

すると、由緒書には「御祭神は聖徳太子と、その両親である」ことがはっきりと記されていたのです。

 

 

そこから南へ歩いて数分の所にある玉造稲荷神社の境内には、とても穏やかな空気が流れていました。

 

 

ここは大阪から伊勢神宮へお詣りをする際、最初に通りかかる神社だったんですね。上方落語『東の旅・発端』にある通り(^ー^)

 

 

そして、本殿の裏手に摂社としての「厳島神社」を発見! 池の龍神さんがとても楽しそうでした(^ー^)

 

 

ついでに、鶴橋にある比売許曾神社にも参拝。阿加流比売こと下照比売命は、天鈿女命(アメノウズメノミコト)と同一神なのかなぁと、太古の昔に思いを巡らせながら…。訊けば、江戸時代の天明年間までは、ここの祭神は素盞鳴尊が関係する牛頭天王社だったとか。やはり、“天王”です。

 

今、大阪市は太閤秀吉時代の大阪城天守閣の調査保存の運動に力を入れておられますが、それよりもはるか以前の難波宮の時代から、ここは政権抗争の激しい場所だったことがよく分かりました。

 

天王寺を知ることは、日本の歴史を知ることなんですね☆☆☆